空海が建立した近代演劇創始者生誕の地/沖濱稲荷神社

沖濱稲荷神社は福岡市博多区古門戸町、奈良屋町公園の向かいのビルの谷間に建つ神社です。創建は大同元年(806年)で唐から帰国した真言宗の開祖・空海(弘法大師)が創始だと言われています。当時は光照寿院(弘法大師堂)の境内に末社として建立されましたが、福岡大空襲で光照寿院が焼失してしまったため沖濱稲荷神社が残るのみとなりました。

地下鉄中洲川端駅や昭和通りにほど近い

周辺は飲食店や雑居ビルが立ち並んでおり、昭和通りを渡ると川端町に出ます。境内入り口から左手には昭和通りを挟んでホテルオークラが見えます。

芸能と縁の深い神社

この沖濱稲荷神社は明治時代に始まった現代劇・新派劇の創始者である川上音二郎生誕の地とされており、新派劇で活躍した俳優たちの参拝記念碑も置かれている、近代芸能に縁の深い神社です。

川上音二郎生誕の碑

奥行きのある境内に入るとまず左手に川上音二郎生誕の碑が建っています。音二郎は文久4年(1864年)、筑前国博多中対馬小路町に黒田藩の豪商・川上専蔵の息子として生まれました。明治11年(1878年)、家を出奔し向かった東京で福沢諭吉と知り合い慶應義塾に学び、警視巡査となりました。音二郎は明治20年(1887年)頃から一座を率いての演劇活動を始め、新派劇を作り上げました。その後アメリカに渡り公演を続けますが明治44年(1911年)、48歳でこの世を去ります。遺体は同じく博多区の臨済宗・承天寺に埋葬されています。川端通商店街北側入口近くにある地下鉄の駅階段横には音二郎の銅像が道を隔てて博多座と向き合うように設置されています。

現代劇の基礎を作った音二郎生誕の地ということで沖濱稲荷神社には現在でも博多座に出演する俳優が多く参拝に訪れています。

新劇派黎明期の著名な役者の碑が建てられている
現代演劇の聖地として扱われている

境内には新派俳優の石碑がありました。花柳章太郎は戦前から前後にかけて活躍した人気女形で水谷八重子は新派劇の重鎮として戦後に花柳と共に劇団新派を結成しました。両名とも新派劇において著名な俳優で石碑は参拝記念に建てられたものです。

天然岩の手水鉢

音二郎の碑の後ろには手水鉢があります。自然な岩の形を活かした見事な鉢でした。鉢の後ろには福岡市の設置した「博多旧市街プロジェクト」の案内板です。

名前は違えど福岡には各地に戦災者を弔う地蔵が置かれている

境内を鳥居に向かって進むと右手に1基の地蔵仏が鎮座しています。この地蔵は戦災地蔵といい、太平洋戦争中の福岡大空襲で亡くなった方を供養するため、博多の各地に建てられたものです。沖濱稲荷神社の戦災地蔵は戦後すぐの昭和25年(1950年)6月19日に建立されています。

社は空っぽらしい

鳥居と社殿です。実は沖濱稲荷神社は社殿にご神体が収められていないという珍しい神社でもあります。

筑前風土記によると安永6年(1777年)に町内富山仁蔵という酒屋に隕石が落ちたことが書かれています。その隕石は宝珠石として沖濱稲荷神社のご神体として奉納されました。宝珠石は白い布で包まれており、人の目に触れればたちまち盲目になるとされていたそうです。しかし、宝珠石は戦時中の混乱で行方不明になっています。

空海がお告げを得た地

川上音二郎生誕の地として博多座俳優たちに多く参拝される沖濱稲荷神社ですが、空海が中国から戻った際に立ち寄った地としても知られています。

由来が細かく書かれている

社殿横の由来書には遣唐使として派遣された空海が帰国した際、この地に立ち寄り、船旅の疲れを癒すためしばしまどろんだこと。その時夢に雲に乗った稲荷大明神が現れ、「高野山に弘道の本拠を開くべし」とお告げを得たことが記されています。お告げを得た空海はこの地に光照寿院と稲荷社を建立した後、高野山に向かい臨済宗の総本山である金剛峰寺を建立したと言われています。
つまり、沖濱稲荷神社は高野山金剛峰寺建立の切っ掛けになった地とも言えるのです。

真言宗の創始である空海や明治時代に新たな演劇を作り出した川上音二郎と歴史的に重要な人物とゆかりのある沖濱稲荷神社。特に川上音二郎の碑には当時の芸能の様子が書かれており、近代演劇の源流を知ることができます。
近辺は博多旧市街プロジェクトの対象地域になっており、多くの歴史ある寺社が鎮座しています。お近くに行かれた際はぜひ、沖濱稲荷神社にも立ち寄ってみてくださいね。

沖濱稲荷神社

住所:福岡県福岡市博多区古門戸町3-8
TEL:なし
祭神:稲荷大神
アクセス:地下鉄空港線中洲川端駅から徒歩4分
西鉄バス博多五町停留所から徒歩3分