博多に点在する小規模神社

福岡市内の神社、特に小規模なものが多い恵比寿神社と稲荷神社は街の景観に溶け込むようにして建っているものが多くあります。そのほとんどが土地改革などで移築された神社や寺院の末社で、本社が廃社になってしまったり市町村合併や町割りの変更で当時の資料が失われてしまったりと由来がわからないものも多くあります。

須崎、古門戸地域には多くの神社が点在している

博多は古くから商人の街として発展しており、商売繁盛のご利益がある恵比寿神社や稲荷神社が多数移築されてきました。特に博多と天神の中間に位置する須崎町、古門戸町には小規模な神社が点在しています。そこで今回は須崎町にスポットを当てて代表的なものを2社、ご紹介いたします。

下鯧恵比寿神社

珍しいクリーム色の鳥居

「しもまながつおえびすじんじゃ」と読みます。マナガツオというのは主に西日本で食べられている高級魚で、刺身はもちろん加熱しても身が固くなりにくいので焼き魚や煮魚などさまざまな料理に利用されます。この下鯧恵比寿神社は山笠で有名な櫛田神社の末社として平成29年に竣工しました。本来末社は寺社の境内に建てるものですがこの下鯧恵比寿神社は飛地末社といい、本社の櫛田神社から1㎞程離れた場所に建立されています。

全然読めない

クリーム色に塗られた真新しい鳥居の扁額には一切読み方がかかれていないので現地で読み方を知ることはできませんでした。読み方がわからず検索することもできなかったのでひさしぶりに辞書を引きました。

マンションに隣接している

マンションが集まる地域の駐車場の一部が境内になっており、境内の裏は普通にマンションでした。昭和通りからすぐの住宅街でしたが人通りはほとんどなく、ひっそりとしています。

お堂も祠も真新しい

境内のお堂は新しい上に掃除も行き届いており非常にきれいです。形といい柱や壁に使われているレンガ調の壁材といい、どこかのコンビニを彷彿とさせる構造。中に収められている祠も同様に真新しいものでした。

漁業関係者のよく使う柏紋

祠の扉にはそれぞれ家紋が取り付けられています。左側、大きいほうの祠は蔓柏と呼ばれる柏紋の一種で主に漁師などの漁業関係者が多く使っているほか、もともと大漁祈願の神で現在は商売繁盛のご利益があるとされている恵比寿神社の紋でもあります。

農業に関係する稲荷抱き稲。5円玉に使われている紋です

右側の少し小さな祠の方は稲紋の一種、稲荷抱き稲でした。こちらは農業の守り神である熊野神社の神官や氏子が多く使っている家紋です。農業の神も恵比寿神と同様に現在では商売繁盛の神として祀られています。下鯧恵比寿神社では、漁業の神と農業の神を小さな神社で同時に祀っているようでした。

ミニチュア庭園のような境内

ちなみに足元には手水鉢、記念碑、灯籠と小さな神社庭園のような造りでした。平成29年の竣工時に植えられた木はまだまだ苗といった様子でしたが、これから長い年月をかけて大きくなっていくのでしょう。

公園のような雰囲気もある

鳥居から本堂までにはきれいに整えられた参道が伸びています。舗装された参道、というのも周囲の景観とマッチしているように見えます。

由来などはほとんど不明な神社ですが、最近になって新たに奉納されたり、境内がきれいに保たれていたりと今でも多くの人に親しまれる神社として鎮座しています。

秋四郎稲荷神社

駐車場の一角に鳥居とお堂がある

下鯧恵比寿神社から徒歩5分ほど、こちらも駐車場の敷地内に建立されています。稲荷神社の特徴である朱塗りの鳥居がまるで車止めのポールのように建てられています。

キレイに切り出された手水鉢

多くの神社が自然石の形を活かして造った手水鉢を使用していますが江戸時代には茶室の庭園には手水鉢が必要不可欠と考えられるようになったため、さまざまな形の創作手水鉢が流行しました。秋四郎稲荷神社の創作手水鉢は桝形と呼ばれるもので神社の手水鉢としては比較的新しいものだということがわかります。

ちょっと細身の狛犬

二体の狛犬もしっかり鎮座しています。前足と胴の間にスペースがあり、他の神社のものよりスリムな体系です。

サイズ的にどこかの末社のようにも見える

朱塗りのシンプルな祠。近所の方が交換しているのか供えられた榊は青々としていました。小さな祠ですが毎年山笠の時期になると大黒流の曳き手たちが勝利と安全を祈願しに参拝に訪れます。

お堂に隠れるようにして石碑が建っている

祠の裏には巨大な石碑が建っています。祠と同じような朱色で文字が書かれていますが祠が隠すように建っているため正面から見ることはできませんでした。
この石碑には当時の町民の名前と以下の内容が書かれています。

「この地域一帯は、古くは秋月藩の倉があって倉所と呼ばれていて、明治5年の戸籍編制の時、隣の妙楽寺町と併合。文化の違いに馴染めず、明治26年3月9日、古くからある倉所という呼び名を町名として独立した」

この辺りは福岡藩支藩の一つである秋月藩(現朝倉市周辺一帯)の出張所があり、派遣されていた秋月藩士が住んでいました。明治時代初期、廃藩置県による戸籍変性が実施され、福岡藩の人々が住んでいた妙楽寺町と合併することになりましたがもともと秋月藩領に住んでいた藩士たちは文化の違いになじめず、政府に独立を嘆願、明治26年に独立を果たしました。この石碑は独立の記念碑として建てられています。石碑は昭和2年に建てられたとありますが、現在倉所という地名は存在していません。おそらくですが昭和37年の大合併の際に統合されてしまったようです。

残念ながら神社と倉所の関係性は不明ですが、石碑を守るようにして秋四郎稲荷神社が建っているように感じました。地名や神社の位置ひとつとってもさまざまな由来があるのでお近くの神社や自分の住んでいる地名などについて調べてみるのも面白いかもしれません。新しい発見があるかもしれませんね。