濡れ衣の語源になった伝説が残る史跡/濡衣塚

上呉服町から石堂橋を渡った国道3号線沿いに濡衣塚という墓標があります。

御笠川沿いの歩道の一角、歩道に沿うような細長い敷地に大きな石碑とたくさんの石仏が鎮座しています。濡衣という名前の通り、濡れ衣という言葉の語源となった故事にまつわる史跡です。

濡れ衣の語源となった故事

濡れ衣を着せるという言葉が生まれた瞬間

8世紀ごろ、聖武天皇の命で筑前国司を務めることとなった佐野近世は妻と娘の春姫を伴い、博多に入ります。近世は博多に入ってすぐ妻を亡くしてしまい、筑前国の娘を後妻に迎えることとなりました。近世と後妻の間に子が生まれると後妻は春姫を冷遇し始めました。そして、近くに住んでいた漁師に「春姫が夜な夜な釣衣を盗んでいく」と近世に訴えさせます。訴えを受けた近世ははじめは疑っていましたが夜中に春姫の様子を見に行ったところ、春姫が寝ている枕もとに濡れた衣が置いてあります。近世は激高し、その場で春姫を切り殺してしまいました。その1年後、近世の夢枕に春姫が立ち、2首の歌を詠んで自分の無実を訴えました。娘の無実を悟った近世は後妻と離縁、自らは出家して春姫の霊を慰め続けました。

そしてこのことから春姫の墓は濡衣塚と呼ばれるようになり、いつしか濡れ衣というのは身に覚えのない罪を指す言葉として使われるようになりました。

梵字の刻まれた石碑

こちらが春姫を祀る石碑です。板碑といい高さ165㎝、幅100㎝、厚さ30㎝ほどの大きなものです。板碑は近世の建てたものではなく、南北朝時代の1344年に設置されたものです。当初は御供所町にある日本最初の禅寺・聖福寺の西門付近にありましたが江戸時代に三笠川の東、そして平成13年に現在の位置に移動しました。

さまざまな石像が並ぶ境内

たくさんの石像は土地改革の際に廃寺などから集められた

板碑の向かいには無数の石仏や石碑が並んでいます。出所は定かではありませんが、道祖神や十三仏、道標も兼ねた石碑などが置かれていることから近辺の仏跡を合祀しているものだと考えられます。

昔は道しるべとしても利用された

道祖神は峠や辻、村境に置かれた丸石や夫婦を象った石像や陰陽石を神体とする石仏のことです。旅の道中の安全や村の守護といったご利益があり、現在でもどんと焼きなど有名なお祭りで祭神となっています。

冥界をつかさどる十三仏

横並びになった十三仏です。十三仏は江戸時代に広まった考え方でいわゆる十王から派生した冥界の審判をつかさどっています。冥界の審判といえば濡衣塚から徒歩5分、石堂橋を渡ってすぐのところに海元寺という十王の一人である閻魔大王を祀っているお寺がありますがなにか関連があるのでしょうか。

この辺りは劣化が激しく何が何だかわからない

複数の石仏に文字の詠めない石碑、灯籠のような像など様々なものが安置されています。これはもともと江戸時代に聖福寺西門付近にあった濡衣塚を現在の場所に移築した際、付近の廃寺の石仏や街道の再編成で撤去された石碑などを一緒に移して合祀したものだといわれています。江戸時代の土地改革で多くの寺社が移築、縮小されたり廃されるなかでちょうど同様に藩境に移築されようとしていた濡衣塚に藩の安全を願って石仏などを集めたという背景があったようです。

当たり前のように使っている言葉の語源が身近なところにあるとは驚きでした。もちろん濡れ衣の語源については諸説ありますが、今のところ濡衣塚の伝説が一番有力な説だとされています。また、3号線を挟んで反対側にある松源寺の山号の濡衣山は濡衣塚の伝説から取って名づけられています。こういった事件や出来事とは違った歴史を感じることができるスポットは非常に貴重です。通りかかった際はぜひ立ち寄ってみてください。あなたにかけられているあらぬ疑いを晴らしてくれるかもしれませんよ。

住所:福岡県福岡市博多区千代3丁目 福岡都市高速環状線高架下
TEL:なし
営業時間:24時間
駐車場:なし
お問い合わせ:092-419-1061(博多区役所地域整備部維持管理課)