隠れキリシタンの石碑が残るお寺/青龍山長圓寺

青龍山長圓寺は福岡市の中心部、中央区今泉に建つ曹洞宗の寺院です。
規模はそれほど大きくありませんが、江戸時代に福岡の地を治めていた黒田家と非常に密接な関係にありました。

そんな長圓寺には人目から隠すようにして建っている一本の石柱があります。そこには当時禁教とされたキリスト教と藩祖・黒田官兵衛に関わる秘密が隠されているのです。

長圓寺の歴史

まずは長圓寺の歴史から見ていきましょう。

よくわかる長圓寺の歴史

慶長初期(1600年頃)、長圓寺は福岡藩祖・黒田官兵衛の弟であり家臣でもあった黒田利高を弔うため、息子の政成によって秋月藩弥永村(朝倉郡筑前町)に清月寺という名前で建立されました。

その後、慶長11年(1609年)に福岡藩2代目藩主・黒田忠之とその母・栄姫、2人に招かれた曹洞宗の僧侶・生雄宗誕によって栄姫の両親を弔うため、平尾山に移築されました。その際、名前を青龍山長圓寺と改めています。
長圓寺という名前は初代福岡藩主・黒田長政の長、長政の父・官兵衛の法名である如水円清の圓(円)から名付けられたと言われています。

さらに元和5年(1619年)には再び黒田忠之、栄姫、生雄宗誕によって現在の今泉に移築されています。

十字架を模した石柱

隠れキリシタンの偶像とされる石柱

長圓寺の境内にひっそりと建つこの石柱は、織部灯籠という灯籠の柱部分です。本来はこの上に笠や火袋が乗っていたと考えられています。キリスト教が禁教とされていた江戸時代において、隠れキリシタンたちは寺院に必ず一基設置されていた灯籠を偶像として用いることを考えました。根元に彫られた立像を聖母マリアやイエス・キリストに見立てたことからマリア灯籠、切支丹(キリシタン)灯籠とも呼ばれています。

では何故、黒田家由縁の寺院に織部灯籠が建てられたのでしょうか。

安土桃山時代末期、関白・豊臣秀吉の配下であった黒田家当主・官兵衛とその父・職隆はキリシタン大名としてキリスト教を信仰していました。
しかし、キリスト教徒による一揆を恐れた豊臣秀吉がバテレン追放令(キリスト教の信仰・布教を禁止する命令)を発布。当然黒田家も改宗を余儀なくされました。
その際、官兵衛とその父・職隆は早々にキリスト教を廃教したと言われています。

バテレン追放令が発布されたのは天正15年(1587年)のことです。
しかし、キリスト信仰の跡が残る長圓寺が建立されたのは慶長元年(1600年)頃でその後移築もされています。同じく十字架などキリスト教に繋がるものが発見された福岡城と崇福寺も追放令発布後に建てられています。
このことから、黒田家は表向きは改宗しながら隠れキリシタン大名としてキリスト教信仰を続けていたのではないかと言われています。そして、長圓寺をはじめ黒田家に関係の深い寺院に信仰のための偶像を設置したと考えられます。

あからさまに隠されている

この石柱は山門を入って左手の生垣に隠すようにして建てられています。キリスト教禁教下で信徒は改宗を迫られ、拒否した場合処刑されました。偶像を灯籠にカモフラージュした上で隠さなければならないほど厳しい迫害を受けていたことが伺えます。

木陰に隠された石塔には梵字とも違った文字が刻まれている

本堂横の植木に隠れるようにして建っている仏塔には日本語とも梵字とも異なる文字が刻まれています。詳細は不明ですが、同様の文字が刻まれた織部灯籠が他の寺院などにあることからこちらもキリスト教に関連するものであると考えられます。

黒田家の影響を色濃く残す境内

長圓寺自体は正式な曹洞宗の寺院として建立当時から活動しており、菩提寺ではありませんが黒田家関係者を多く祀っています。また、享保の大飢饉の際、食料を求めて福岡城を目指す民衆が付近を通ったということで犠牲者も多く弔われています。

山門

敷地や本堂の割に山門は質素

縦長で飾りの少ない山門は武家と結びつきの強い筑前の国(福岡県)の曹洞宗の特徴の一つです。通常、寺院の主だった門は大門と呼ばれることが多いですが長圓寺はもともと清月寺という山岳寺であったため、山岳寺の門を指す「山門」と言う名称が今でも使われています。

お堂

山門と同じくらい年季の入ったお堂

山門の横にはお堂があり、弘法大師と飢人地蔵が祀られています。

飢人地蔵は享保17年(1732年)に発生した全国的な飢饉、享保の大飢饉による死者を弔うために建てられたもので、当時の人々が食料を求めて福岡城(中央区城内)へ向かったとされるため、福岡市内に多く建立されています。子どもの願いを叶える、豊作と言ったご利益があるとされており、祈願の際におにぎりを供える、地蔵の口元に味噌を塗りこむといったことから別名、おにぎり地蔵や味噌食い地蔵とも呼ばれています。

長圓寺では飢饉の犠牲者を弔うため平成11年より戦後長らく途絶えていた地蔵尊祭りを再開し、毎年8月24日に供養の祭りを執り行っています。

弘法大師像は真言宗の開祖ですが、多くの仏教寺で地蔵菩薩として祀られています。

石碑

禅宗の戒律を刻んだ石碑

山門とお堂の間には「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑があります。これは「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、僧侶が葷酒を食すのを戒める意味を持っている、曹洞宗を含む禅宗の寺院の特徴の一つです。

葷酒とは五葷(ごくん)と呼ばれた、ニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ショウガといった匂い強い野菜と酒を指します。その臭気や食べることによって生じる色欲や怒りを避けるため、仏教では食べることを禁じられていました。

質実剛健の武家文化として広まっていた曹洞宗の寺院らしい特徴と言えます。

栄姫霊廟

作られたばかりの霊廟

山門から境内に入って左手に建つ真新しいお堂は、移築時の開基で黒田長政の後妻である栄姫の霊廟です。平成27年に建て直され、栄姫の遺髪が弔われています。

栄姫は生前、高遠城(長野県伊那市)城主であった父・保科正直の遺骨と母、多却の遺髪を弔うために長圓寺を移築・再興しました。両親は長圓寺の開山である生雄宗誕和尚によって祀られています。黒田家が建立した寺院で保科家の人物が祀られているため、この霊廟の扉には黒田家の家紋と保科家の家紋がそれぞれ描かれています。

本堂

よく見るとあらゆる箇所に黒田家の家紋があしらわれている

本堂は禅宗(曹洞宗)の伝統的な建築様式・禅宗様の建物となっており、本尊として釈迦如来を祀っています。屋根瓦や正面の扉には黒田家の家紋である藤巴が描かれており、黒田家ゆかりの寺院ということがわかります。法要の最中で本堂の中を見学することはできませんでしたが、内部には絢爛豪華な釈迦如来像が安置されています。

雨受け甕

龍の飾りがついた甕

また、本堂の両脇には雨水を受ける甕が設置してあり、精巧な龍の彫像を見ることができます。甕には天皇家の家紋であり、室町時代からは幕府の紋としても使われるようになった五三桐と呼ばれる紋が描かれています。五三桐は幕府の許しが無ければ使うことのできない紋なので、黒田家が外様大名でありながら幕府から強い信頼を得ていたことがわかります。

※外様大名とは関ケ原の戦い以降に幕臣に加わった大名を指す。

正一位豊川稲荷

お寺の中に神社

本堂左側には正一位豊川稲荷と書かれた鳥居と小さなお堂が建っています。お寺の境内に神社がある不思議な光景ですが、これは江戸時代の神仏習合の流れと土地改革で豊川稲荷を長圓寺の末社として祀っているものです。もともと神仏習合の考え方はキリスト教布教のために作られたと言われているのでここでもキリスト教とのつながりを感じることができます。

石仏

境内にはこの3倍くらいの石仏が置かれている

少し戻って、山門の両脇にはたくさんの石仏が並んでいます。そのほとんどが享保の大飢饉による死者を弔うもので、無縁仏を弔う無縁塔(無縁仏を集めた墓標)も作られていました。左側の石柱と一体になっている石仏には「俊香童女」と書かれています。童女は14歳以下の女の子につけられる戒名で、飢饉の際には多くの子どもも犠牲になったことがわかります。

馬頭観音像

武家御用達の馬頭観音

馬頭観音は馬の無病息災と怨敵降伏を祈念する観音像です。そのご利益から多くの武家が好んで安置したといわれています。当然、武家である黒田家も積極的に設置しており、福岡の寺院にはほとんど馬頭観音像が安置されています。

長圓寺は非常に黒田家と密接な関係を持っており、その文化や思想などに大きく影響されています。
宗派である禅宗と武家文化の親和性も高く、福岡藩祖の時代から2代目忠信の時代まで藩主自らが訪れる重要な寺院として機能していました。
現在は370年もの歴史を持つ寺院として墓地・納骨堂の運営をされています。ぜひ、丁寧に整備された枯山水の庭園と、取材時は解放されていませんでしたがきらびやかな装飾の施された本堂、そして隠れキリシタンの偶像とされる石柱を見に行ってみてはいかがでしょうか。

曹洞宗 青龍山長圓寺

住所:福岡県中央区今泉2丁目14-7
TEL:092-741-8555
宗派:曹洞宗
アクセス:地下鉄薬院駅から徒歩5分
西鉄バス薬院二丁目停留所より徒歩4分